栄寿会関東支部2004年度第1回同好会(散策・文化・食采、合同)
第1回合同同好会を参加者22名、下記内容で実施しました。今回は「鎌倉散策」(日蓮の足跡巡り)と称して、日蓮上人、縁の地を訪問。また"あじさい"で有名な成就院、光則寺等を散策し、名刹・長谷寺では紫陽花、花菖蒲を鑑賞。昼食会場の「たじま」は大仏次郎、川端康成、林房雄、小林秀雄ほか、著名な文豪各氏が、かつて日夜酒を酌み交わされた由緒あるところ。
この日は、あいにくの梅雨空でしたが、昼食会場へいくまで何とか本降りとはならずに済みました。ご夫人方がすこぶる元気で昼食時アルコールが入ったこともあって大いに盛り上がっておりました。
●日時:2004年6月11日(金)10:00〜14:00
●集合場所/集合時間:江ノ電・極楽寺駅・改札口/午前10時、時間厳守
●参加費:3,000円(食事代、拝観料含む)飲み物は各自負担
〔コース〕江ノ電・極楽寺駅→極楽寺→上杉憲方の墓→成就院→星月の井→権五郎神社→光則寺→長谷観音(休憩)→収玄寺→江ノ電・長谷駅→(江ノ電乗車)→鎌倉駅→日蓮辻説法跡→妙本寺→本覚寺→昼食(たじまTEL0467-22-4213)懇談後解散
鎌倉散策メモ
@極楽寺(霊鷲山感応院極楽律寺、真言律宗西大寺末)
真言律宗の再興を図り奈良・西大寺から鎌倉に赴いた良観坊忍性(開山)と北条泰時の弟重時(開基)が深沢にあった当寺の再建を計り、この地(地獄谷)に創建(天正元年、1259)。その後、子の長時、業時らの協力で、七堂伽藍、四十九院の大寺院となる。現在はその塔頭、吉祥院の建物のみが本堂として残っている。忍性は施薬院、非田院、療病院、らい病宿、馬病舎等々社会救済施設の造営、極楽寺坂切通し等の土木事業(189橋、71道)などにも取組み、後に菩薩の称号を得る。立派な生き方であるが、日蓮からすれば、権力と結びついた忍性の活動は、仏法本来のあり方から乖離しているとして大いに批判した。宝物殿(転法輪殿)の前の大きな鉢は製薬鉢。極楽寺には釈迦如来立像(清涼寺式)、十大弟子像、不動明王像、密教法具など、多くの国重文がある。
A伝上杉憲方の墓、成就院
極楽寺寄りの左奥に上杉憲方の墓所がある。苔むす五輪塔に歴史が偲ばれる。憲方は山の内上杉家の祖で、北鎌倉の明月院は時頼の最明寺を時宗が再興して大寺院、禅興寺を創建したが、その塔頭として憲方が建てたもの。
弘法大師が護摩修法した場所に、北条泰時が創建した(承久元年、1219)真言宗の寺。門前の道が昔の極楽寺坂で、現在の道に比べ、かなり高く急坂であったことが分かる。
B虚空像堂、星月の井
平安時代、行基菩薩により、星の井戸との縁によって建立されたと伝えられている。虚空蔵菩薩に立願した日蓮との奇縁が面白い。また星の井/星月の井は、暗い夜中でも底に星が見えたとされ、「星月夜」は鎌倉の枕詞になっている。鎌倉十井のひとつ。
C御霊神社/権五郎神社
恒武平氏から出た、大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉の五氏の祖霊を祀った社を、それぞれ五霊社/五霊神社と呼び、当社はそのひとつ。鎌倉権五郎(武勇で知られ、後三年の役で武功を挙げる)を祀っている。
D光則寺
関東の豪族で源平合戦の折、源氏方で武功を挙げた、宿屋一族の末裔“宿屋光則”は北条時頼の重臣であった。文永八年(1271)日蓮以下多くの信者が捕らえられたとき、高弟“日朗上人”等数名は光則に預けられ、裏山の土牢に幽閉された(龍の口法難)。日蓮に心を寄せていた光則は囚人達を密かに厚遇し、遂に日蓮宗に帰依して、その屋敷を寺とした<文永11年(1274)>。寺号は光則の名を採った。境内には立正安国論御勘由来の碑(立正安国論は光則を介して北条時頼に推達された)、樹齢150年の“カイドウ”がある。
E長谷寺/長谷観音(浄土宗)
721年に徳道上人が一本の楠の大木から二体の十一面観音を製作。木の本で造った尊像を大和の長谷寺に祀り、木の末で造った尊像は、海に流された。16年後の736年相模国三浦の長井に流れ着き、海上に光明を放っていたという。その後、尊像はこの地に移され、徳道上人を招き寺を開いたのが、長谷寺の始まりといわれている。長谷寺は「坂東三十三観音」および「鎌倉三十三観音」の第四番霊場で、観音堂の本尊「十一面観音菩薩」は身の丈三丈三寸(9.18m)で本邦最大級。観音堂の右隣には、源頼朝建立の由来を持つ丈六の阿弥陀如来座像(像高約2.8m)を安置した阿弥陀堂がある。観音堂の左隣には「鎌倉江の島七福神」に数えられる大黒天(1412年室町時代の作で、神奈川県最古)を祀る「大黒堂」がある。観音堂併設の宝物館には重文の「梵鐘」や「懸仏」をはじめ貴重な什宝が納められている。山岳寺院の様相を持ち境内地が上下に別れており、下の境内は、「放生池」と「妙智池」の二つの池が配される回遊式庭園で四季折々の花木が色を添えている。下境内地の奥には弘法大師参籠の伝説を持つ「弁天窟」がある。
F収玄寺
日蓮に帰依し種々援助した四条金吾(北条氏江間光時の臣)の屋敷跡で、それを示す東郷元帥書の巨大な碑がある。龍の口での処刑を免れたのも、金吾→比企能本→安達泰盛(北条時宗の妻の父)→時宗の縁によるものといわれている。
G日蓮辻説法跡
建長5年(1253)、安房清澄寺で「法華一乗」の悟りを得て、立宗を誓い日蓮と改名。鎌倉・松葉が谷に庵を結び、翌年より法華経の布教を始める。その場所は人通りの多い小町大路と大町大路であった。ここには、その際腰掛けていたといわれる腰掛石もある。
H妙本寺/大円坊
比企能員(ひきよしかず))の子、能本(よしもと)が一族を弔うため、日蓮の高弟、日朗を開山として、文永11年(1274)に建立した。能員はじめ一族の墓がある。総門の傍らの八角堂は塔頭の大円坊で現在は幼稚園。能本(大学)は日蓮の帰依者で龍の口法難の時も日蓮救助に尽力した。総門から二天門までの老杉に囲まれた長い参道は幽玄な趣がある。この辺り一帯は比企が谷と呼ばれ、有力な御家人比企一族の館があった。能員はその勢力拡大(能員の娘は二代将軍源頼家夫人、若狭局)を恐れた北条時政により謀殺され、同時に館も急襲され一族郎党百余名が殺された。
I本覚寺
文亨8年(1436)日出上人が開いたが、二世日朗上人が身延山から、日蓮の分骨を納めたことから“東身延”と称されている。俗に”日朗さま”と呼ばれ、眼病治癒の信仰がある。鎌倉時代、幕府の守護神とされた夷堂があり、日蓮が佐渡から戻った際、滞在している。夷堂は昭和56年(1981)に再建された。