栄寿会関東支部2004年度第2回同好会
(上野・池之端散策と梅茶屋)


文末に記念スナップ写真があります。

 栄寿会関東支部の合同同好会開会「上野・池之端散策と梅茶屋)」が2004年9月24日(金)、21名の参加で開催されました。この日は気温の割りに湿度が高く、まるで梅雨時のようでした。一行は午前10時に地下鉄・千代田線「根津駅」に集合、横山大観記念館を目指しました。同記念館では館長を務める大観のお孫さんから1時間にわたり丁寧な説明を受けました。続いて、旧岩崎邸庭園、三菱史料館を見学。当時を偲びました。時間を大幅に超過したので、麟祥院(春日の局墓所)、湯島天神の参拝は昼食後へまわすことにして、昼食会場の梅茶屋へ。久々に皆さんの元気な姿に接することができ、それぞれ近況報告などでリラックスしたひと時をすごすことができました。

〔横山大観記念館〕
 もともと日本画家、横山大観(1868〜1958)の住居。大観がこの地に住みはじめたのは、明治42年(1909)。最初は狭かった敷地も、大観が画家として名をなすにしたがい拡張され、大正 8年に現在の広さとなった。昭和20年(1945)3月10日の空襲で住居が焼失したため、大観はしばらく熱海伊豆山の別荘に移住。昭和29年(1954)8月、焼失した住居の土台をそのまま利用して、新居が再建され、大観は再び池之端での生活へ。昭和33年(1958)2月に90歳で没するまで、ここで数多くの作品を制作した。静子夫人没後の昭和51年(1976)9月、遺族から大観の作品や習作、 遺品、画稿、スケッチ帳などの寄贈をうけて、財団法人横山大観記念館が設立され、同年11月に一般公開された。当館は、心の安らぎを感じられる美術館をモットーとし、できるかぎり建物の雰囲気をいかし、軸装の作品はそのまま床の間にかけて展示している。また、靴を脱いで入る日本建築の良さ、大観がこだわった細部のデザインも存分に楽しむことができる。
〔旧岩崎邸庭園〕(重要文化財)
 明治から昭和にかけての実業家、岩崎久弥のかつての住宅。明治29年竣工。設計者はイギリスのジョサイア・コンドル。上野の博物館(現在の東京国立博物館)や鹿鳴館など数多くの官庁の建造物の設計監督にあたり、19世紀後半のヨーロッパ建築を紹介して日本の近代建築の発展に指導的役割を果たした。同一敷地内に洋館―社交の場、和館―生活の場を併立する大邸宅は明治20年頃から建てられたが、岩崎邸はその代表例であり、現存する明治建築として貴重である。洋館(木造2階建地下室附)正面に向かって左半分が主屋でスレート葺の大屋根をかけ、その右にやや規模の小さい棟が続く。両者のあいだの玄関部には塔屋がたち、角ドーム屋根となっている。南側ベランダには装飾を施された列柱が並び、全体的にはイギリス・ルネッサンス風となっている。洋館左側に建つ撞球室(ビリヤードルーム、木造1階建地下室附)とは地下道でつながれている。洋館と撞球室は昭和36年に重要文化財の指定を受け、昭和44年には、和館内の大広間と洋館の袖塀1棟が追加指定を受けた。
〔三菱史料館〕
 中央に岩崎彌太郎の胸像が、左右に彌太郎の書と第4代小彌太社長の書を配して設置され、パネルでは、明治維新期の創業から今日に到るまでの、約130年の三菱の歴史と時代背景を分かりやすく解説している。展示の史料はいずれも三菱とわが国の産業発展史を物語るもの。セピア色になった古い数々の写真のほか、発祥の地、大阪西長堀通の地所家屋を買い足したときの沽券(契約書)や、明治10年の西南の役の際の三菱船徴用の政府文書、郵便汽船三菱会社が採用した複式簿記の規定集、明治23年の丸の内払下げの際の政府発行の領収書など。
〔麟祥院〕
 徳川三代将軍家光の乳母春日局の菩提寺。寛永元年(1624)の春日局の願いによって創建、局はここで余生を送り、その没後境内に墓地が造られた。当時はお寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので、「からたち寺」と親しく呼ばれていた。春日局(幼名、福)は、明智光秀の重臣、斎藤内蔵助利三の娘として生まれた。はじめ稲葉佐渡守正成の妻となり、正勝、正定、正利の三子をもうけたが離婚し、慶長9年(1604)徳川3代将軍家光(竹千代)の乳母として召し出された。家光が将軍職に就くために献身的な努力をし、大奥の制度を確立し、寛永6年(1629)には御所に参内し春日局の号を賜った。寛永20年(1643)9月14日、65歳で死去し当院墓地に葬られた。春日の局の墓」は坊主頭の上部中央には円い穴が開いていて、自分が「死して後も天下の政道を見守り之を直していかれるよう黄泉から見通せる墓を…」という遺言によるものと伝えられている。